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技術士(河川・砂防及び海岸)受験に役に立つブログNO76

日本の治水史(竹林征三氏著)に記載された禹(う)の治水八則について、河川に携わる者にとって、そして技術士に求められる技術者倫理の参考になると思いますので、紹介します。

古代中国に伝わる禹王の治水伝説。治水史の一番最初の失敗と成功の物語。禹王の神話を読み解けば「河川技術の5要素」と「4つの認識」が記されている。

■河川技術の5要素
河川技術とは次の5要素である。①誰が(主体)、②どのような意図・目的で、③どのような場所・位置に、どのようなときに、④どのような施設を、⑤どのような手段(資材と方法)でつくるかということ。

■河川技術4つの認識
1河川に対する自然感
もろもろの自然現象の中に河川の営みがある。自然の営力とメカニズムに対する理解と認識が重要である。
2人知と人為の認識
人間の知恵の限界、既知のものと未知のものの認識。想定できるものと想定できないもの。人間の行為として可能なものと不可能なものがあることの認識
3災いの認識
いかに大きな天変地異も人間のいないところでは災害にならない。人災と天災は連続体であり、実際の災害は複合である。どこで切れ目をいれるか非常に難しい河川の災いは、水災と土砂災害の複合である。災いは人間の認識と対処により無限に拡大していく。
4河川の恵みの認識
いかに大きな天変地異も人間のいないところでは災害にならない。河川の水は人間を含むすべての生命を育んでいる。河川は清濁すべてを包み込み流れる。包容力のパワーがある。河川は文化・文明を育んでいる。

このような、禹の「おしえ」は、現在の混迷している治水の時代、河川技術・治水に携わる方に大いに参考になります。

また、下記に書かれていることは、禹の治水八則を現代の技術者へのメッセージとして要約したものだと思います。私たち公共事業に携わるものが常に問いかけるべきことが書かれています。
1怯懦(きょうだ)と退嬰(たいえい)の気が世を覆い、失敗・事故の繰り返しの遠因となっていないか
2本質を見ず、末端にとらわれ浅薄技術になっていない
3満象に天意を覚り、治水計画を検討しているだろうか
4近代の発展した技術を誤った方向に使っていないか
5評論家や学識経験者と同じ立場に立っていないか。自ら進んで現地実務に携わっているか
6権力に迎合して本質を忘れていないか。
7人の世のため、自己を犠牲にしてでも携わる精神を忘れていないだろうか。大過なくの自己保身になっていないか
8利他行・人の世のため・国のための精神を忘れいていないか。

 

今日のコラム

坂の上の雲を読み終えて、作者は何を書きたかったのか考えてみました。いちばん書きたかったことは、「その時代」であろうと思います。この時代の日本人の気骨、熱気そして日本という国自体の躍動が活き活きと伝わってきました。

最後にあまりにも有名なこの物語の書き出しを記します。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。
社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。
財政が成り立つはずは無い。
が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。
主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。
ともかくも、我々は3人の人物の跡を追わねばならない。
四国は伊予の松山に、三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。
もうひとりは、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖になった、俳人正岡子規である。

彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。
登っていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を登ってゆくであろう。